一般社団法人ダム工学会
 
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行事報告

 

 

   
 

行事報告

 
ダム工学会20周年記念シンポジウム

基調講演『ダムと社会との関わり』
土木学会(前)会長  近藤 徹

          

図−1


 私は、昭和34年に建設省へ入ったときに、最初に、今、利根川の上流にあります薗原ダムという現場に入りました。それから、行政ではダム事業主管の開発課で係長をやっていまして、ダム計画の立案から事業実施の予算などを担当しました。その次に、川治ダムで、行政的に言うと予備調査というダムの計画がはっきり定まっていないところからダム計画をつくるまでの仕事をやりまして、一応、調査、計画、事業実施、ダムの現場でも、コンクリートの打設現場の監督をしたこともございます。
 ですから、経歴から見ると本当のダム屋のはずなのですが、途中から別の仕事に移って、建設省を卒業してから今ご紹介いただきました水資源開発公団総裁となり水資源開発公団所管のダム事業を担当することになりました。それまでの間にダムの現場から離れてかなりブランクがあります。この時期の仕事として、ダム事業について都道府県や水没地域との調整などに従事しており、ダム工学、ダム技術そのものは職員の皆様にお任せして、とにかくできるだけダム事業に障害が起きないように専心してきました。このため、ダム工学会の今日的課題にすぐお話ができるような能力はありません。入江さんから基調講演を頼みますと言われて、何をしゃべるかわからんぞと言ったら、何をしゃべっても結構ですということでしたので、私なりに考えていることをお話しさせていただきます。
 まず、ダム工学会、創立20周年、大変おめでとうございます。今から20年引くと、ちょうど私が河川局長で、長良川河口堰がマスコミのすごい反対運動のさなかでした。当時の状況を思い浮かべながら、ダム技術者、あるいはダム行政官がどういう思いでこの工学会創立にかかわったのかなと推し量りながら話をさせていただきたいと思います。

図−2


 最初に、図-2をお見せしますが、これは23年前、私が河川局治水課長、ダム行政に全く関係ないときに、当時、アメリカの陸軍工兵隊担当の国防省次官補の方が河川局長室へ来られて、日米で河川防災の連絡協議会を開こうじゃないかというお話があって、我々は国際派じゃないのですが、治水課長が答礼に行ってこいということでアメリカへ行ってきました。当時、陸軍工兵隊のお申し出は大変ありがたい、ただ我々はダム行政もやっているので、アメリカ側は内務省開拓局も入れてくれ、日本側の責任者は全て建設省河川局長にしてくれという虫のよい答えをしにアメリカの国防省へ行ってきました。 帰りにフーバーダムへ寄ったのですが、そのときのアルバムを開いてみたら、この写真が残っていました。私の記憶では、アメリカ国家としてこのダムは国民のためにつくるのだというようなフーバー大統領のメッセージがどこかに残っていたような気がしたのですが、写真にはそれに近いものが写っていました。モニュメントに記されていることを私なりに翻訳すると「不毛の地を豊饒にしようと着想し、この偉大な事業を具体化させた人々、叡智と労力を注ぎこの夢を実現させた人々の栄誉を表すのに相応しく、我が星条旗が此処に翻るのだ」というようなことではないかと思います。
 この左の写真がフーバーダムで、ネバダ州とアリゾナ州の州境にできているダムですが、右岸側のネバダ州側にここに見るような旗が掲げられており、その旗のもとにあったのがこのモニュメントで、要するにアメリカとしての誇りを持ってフーバーダムを造っているということでした。

図−3


 図-3の写真が、ご存じの黒四ダムですが、私は、昭和34年建設省に入ったときに、ダムの現場ではこの「ああダムの町」の歌を歌っていました。三浦洸一という歌手の唄で私の世代の方だと覚えている人もいるかもしれませんが、ダム技術者のロマンをかき立てた時代があった。ダムは歌謡曲にもなっていたわけですが、社会もダムを当然として受けとめていた時代であります。

図−4


 次に図-4ですが、この黒四ダムを主題にして三船敏郎と石原裕次郎が「黒部の太陽」という映画をつくりました。昭和43年ですが、その後、このときの経緯を書いた本を、映画の監督をされた熊井啓が書かれました。そのときの経緯ですので、この本の題名も「黒部の太陽」となっています。映画は、ダム事業の中で、資材運搬をするための関電トンネルの大工事だけを主題にしてできております。
 黒四ダムを主題にしたこの映画をつくるときに、当時は、世界の三船、それから日本の人気絶頂だった俳優の石原裕次郎が映画会社の五社協定に徹底的にいじめ抜かれながら、土地家屋を抵当にしてこの映画をつくり上げて、最後に配給は日活にお願いするという形で上映が行われました。5社は危険負担を全部俳優にやらせて、もうけるところだけはもうけたという話ですが、題材も題材だけど、映画をつくる過程もすごい苦労をしたという経緯が、この中にいろいろ書いてあります。「これは単なる賛歌ではない。この映画が見つめようとしたのは、いまの複雑な世界で我々が、ものを「作る」ことの意味であったと思われる」というこれは映画評論家の感想です。
 それから、上に「総工費500億と延べ1,000万人の労働力をかけねばならぬ工事を、日本に必要な電力のために、断行した経営者の決断を忘れてはならぬ。」と書かれております。しかしここには、経営者を支えた人たちがいたわけです。あの映画の中でも経営者だけではなく、大破砕帯にぶつかって突破できるかわからんという中で必死にやった技術屋集団の意思と努力がこの映画の主題になっているわけで、しかもこの二大俳優がこの物語に共感して、そういう制約の中で映画をつくり抜いたということでもあります。つまりは、国民の中でダムというのは非常に前向きにとらえられていたということであります。

図−5


 それから、図-5ですが女流作家の曽野綾子さんが昭和44年に「無名碑」というのを書いておられます。読まれた方もあると思いますが、最近、読売新聞で曽野綾子さんが回顧談をしゃべっているのが連載されていました。当時彼女は強烈なうつに見舞われて、それで「無名碑」を書いてうつから脱出したということを告白しております。それから、大分おくれて、昭和60年には「湖水誕生」、これは、東電の高瀬川ダム、その建設物語を書かれております。
 一方で、「金環蝕」、石川達三の作ですが、ダム工事の発注をめぐる政・官・財を内面的に描いた小説というのが出て、これは山本薩夫監督の映画にもなっております。つくる過程の技術者群像は全く出てきません。それを扱う政・官・財と言いますけれども、少なくとも官は大変えらい迷惑で、まさに政の問題かなと思ったりもしますが、こういうダムに対する批判が国民の中で当時からもあったということです。
 さて、それで、最近、ダム中止ということが言われておりますが、平成7年にダム等事業審議会、この審議会が設置された当時の開発課長で、今は、水資源機構理事長の青山さんが会場に来ていますが、当時、長良川河口堰をめぐっていろいろあったのですが、社会党の建設大臣が長良川河口堰にゴーサインを出してくれました。おかげで社会党は選挙で大惨敗したというようなお話になりました。これを契機に着手して長期間経過した事業については、政治家に責任を負わせてはいかん、行政的に再評価をしようということで、河川行政の判断でダム事業の事業審査を始めました。
 このダム事業審議会は平成10年から始まったと思いますが、遅れて12年に政治の方も公共事業の抜本的見直しに関する三党(自自公)合意基準、それから同時に建設省独自基準で5つの評価基準で既着手の全ての事業を見直そうということになりました。以来、事業の見直しを毎年行ってきまして、中止された事業が図−6の一覧表で、これは国土交通省のホームページから私がとった資料でございます。抜本的見直しが始まった最初のころは、全体で190事業、ダムは大きなシェアを占めて47事業ですが、最近は中止という事業は極めて少なくなっております。

図−6


 それから、インターネットでウィキペディアを開いて調べると、図-6に示しますが、中止になったダムの一覧表があります。反対運動によって中止になったものが6つ、赤岩ダム、沼田ダム、千曲川上流、板取、細川内、久世畑ダムがあがっていますが、一つ一つ関係者の皆さんに確認すると、例えば沼田ダムが反対運動によったのかどうかというのは疑問で、話題にはなったけれども、反対運動の俎上には上らなかったというのもあります。細川内なんかは、ご承知のように、地元の反対があって中止になった。久世畑というのは、事業化する前の構想ぐらいの段階で中止になったということで、ウィキペディアがどういう資料をどう判断したのかちょっとわかりませんが、そういう事情で中止になっております。
 それから、複合的な理由によるもので、反対運動と需要の減少・事業者の財政難により中止となったダムが緒川ダムと小歩危ダム、それから反対運動と環境問題・漁業権等の既得権益により中止となったダムが矢作川河口堰、これらも反対運動が絡んでいたかどうかわかりませんけど、ウィキペディアではそういう整理がされております。

図−7


 それで、これから事業中止が注目されるダム、中止とされてはいませんが、現政権に中止と言われているダムがなぜそういう事情になったのか、私なりに整理してみたいと思います。
 なお、これは冒頭でも示しましたが私の個人的見解で、国土交通省の見解ではありませんし、またお話しするのは、私の経歴から、国土交通省にかかわるダム事業が多くて、例えば農水省や電力会社のダム等は資料が手もとに何もありませんのでお話ししません。私の身の回りで感じたことをお話しさせていただきたいと思います。

図−8


 まず、球磨川の川辺川ダム、要は大水害を体験した受益者がなぜ反対するのかということであります。

図−9


 図-9は、九州熊本県の南のほうを流れている球磨川の流域です。この流域は球磨川本川と支川の川辺川という流域面積が似た大きさの川が人吉で合流して、それで最後、八代で海に注ぐわけですが、ちょうど人吉という所が盆地になっていて、昔ここは湖になっていたらしいんですが、そこへ急流の2つの川が合流しているというので、非常に水害の発生しやすい地形であります。

図−10


 この川の治水事業の履歴、経緯をお話ししてみますと、図-10にありますが、昭和28年に本川のほうにちょっと小さいダムではありますが市房ダムを建設省で建設して、その後、昭和35年に熊本県管理になりました。40年に大水害がありました。実は、私はその大水害のときに担当係長で現地に入って調査を行いました。悲惨な大水害だったので、人吉の治水対策としてもうダムによらざるを得ないということで、河川局内の計画決定にも係長として参画しています。水没地が、当時から名高い五木村というところですから、平地のないところで、この人たちを移転させるのは大変だなと思いつつ、ダムにしかよらざるを得ないなというので、計画づくりをいたしました。
 当時としては非常に特急で、昭和44年には事業着手に至りました。水没される方の代替地も何もないような場所ですから、地元との交渉が非常に長引いたのだと思います。その後の経緯は、私は知りませんが、平成2年に補償基準妥結、このとき私は河川局長でしたけれども、全く私は記憶にありません。平成8年に本体工事に伴う協定が、水没者、県、当時の地建との間で話ができて、いよいよダム本体に取りかかる状況になったのですが、平成13年にダムにより貯水池となり水につかるところだけ漁業権を抹消しようというのに対して、漁業組合が1,428人分の802人、過半数は超しているのですけど、漁業組合法の規定では三分の二の賛成が得られなかったということで、国土交通省は土地収用法に移行していくわけです。
 川辺川ダムは多目的ダムであったわけですが、その後、水源をダムに求めるとしてダム事業に参加していた国営土地改良事業、農地のほうの計画が結果的には、ちょっと関係者がいたら申しわけないですが、亡くなった方が同意の判をついていたとか、いろんなことが出てきて、ずさんということだったためダム計画の参加を取りやめたので、国土交通省としては土地収用法の採決をその後取り下げざるを得ないような状況になります。
 平成18年の時、私が河川整備基本方針の検討委員会の座長をしており、球磨川の河川整備基本方針の審議を行うことになりました。当時、熊本県知事が女性の方でしたが、どうも知事さんの姿勢がよくわからんということで、前後11回の審議をやりまして、徹底的にデータから洗い直しながら審議を進めてまいりました。知事さんは、ここで了解しても県民に説明する自信がないので、私は意見を保留するという形で、最後まで了解ということにはならず、この方針が決定されたわけであります。
 その間に住民からも、反対者からも、いろんな意見、いろんな資料が委員長の私あるいは委員の皆さんに届きました。私はこれを全部読みました。その上で、学術的にも工学的にも、国土交通省の計画については私も自信を持てました。水没者からの投書が大変多く、これはワンパターンのいわゆる思想的に反対というものではなくて、体験に満ちた意見書でございました。
 その後、知事がかわって、新しい知事が有識者会議を設置する等いろいろありますが、政権が、ダムは中止だということで現況に至っております。
 人吉という盆地に2つの大きな急流河川が入っていますから、先ほどお話しした40年水害というのは悲惨だったのであります。ところが、40年の前の38年、39年も水害が起こっていて、40年の水害がとどめの大水害になって、これで熊本県議会も何とかしろというので、ダム計画というものが急速に現実化したんです。しかし寄せられた意見書の中で人吉市の洪水の被害者の中には、市房ダムの放水による水害であったという記載が極めて多いということであります。

図−11 図−12


 図-11に40年洪水の写真と新聞記事,図-12に球磨川の過去の最大流量を示します。この昭和38年、39年洪水の流量を見てみますと、この図のようになっていて、4,000tというのは川の下流の河道計画の流量です、7,000tはダムの計画が対象とする基本高水の計画流量。100年に1回の洪水を7,000tぐらいにしましょうというのが結論でした。しかし、過去の洪水を見ると結構河道の流下能力を超える洪水が頻発しております。住民の皆さんは、昭和35年に市房ダムが完成する前、洪水は起こっていないのだ。35年、市房ダムが完成してから起きているのだというようなことをおっしゃっています。確かに連続して洪水が発生したというのは住民にいろいろな心証を招いたのではないか。その上に、市房ダムが完成しているというようなことも含めて、いろんな誤解を招いているのじゃないかというふうに思います。

図−13


 その後も昭和57年、平成17、18、20年とかなりの洪水が出ております。(図-13参 照)

図−14


 図-14は、私に届いた水害体験者の会の証言録です。
洪水の最中、さらに市房ダムから放水する広報宣伝があった。前日来の雨で既に床上浸水の最中に「市房ダムから放水されますので十分注意してください」という消防署の広報車が回った。間違いじゃないかと思った。逃げることに必死だった。洪水の被害は1分たりとも我慢できない。水害常襲地帯の商店街は全滅だ。復興にも苦労したと書かれています。
 それから、市房ダムに証拠改ざん疑惑ありとする証言です。ある市議会議員が当時の人吉の土木課長に、どうしてあんないいところを辞めたのか聞いている。要するに市のこの土木課長というのは、もと県の職員で市房ダムの管理所長をしておられた。辞めて、水害の翌年に人吉市の土木課長になったんだそうです。どうして辞めたのだと市会議員が聞いたら、水害当日、俺は当直だった。大雨のため大量の水が入ってきたのでダムの水門をあけた。それで下流に迷惑をかけたので首になった。このとおりしゃべったかどうか、本人も故人でしょうからわかりませんけど、伝え聞きの反対者の意見としてこういうのが載っております。

 ダム災害は三度あってはならない。建設省は「市房ダム湖への流入量よりもダムからの放流量が少なかったのだから、もしダムがなければ被害はもっとひどかった」とあいまいな説明をしている。流域が浸水しているとき、不十分なダム操作で湖水がダムの頂をオーバーフローし始めた、慌てて瞬間放流量を増大させたことに起因している。市房ダムの異常放流こそが最大の原因であるという証言もあります。これを見ると大変な誤解だと思うのです。

図−15


 図-15が、川辺川ダムの検討委員会に河川局から出された資料でありますが、これを見ると、ダムのピークを迎えるまで、ずっと一律水位が上がっているのです。ダムの管理資料に流入量と放流量の資料がないから改ざんだと言っているのですが、流入量と放流量というのは計算してわかる数値ですけど、水位は見ては測るわけです。この水位が一貫して右上がりであるということは、少なくともダムは悪さをしていない。水害を悪化させてない、よくはすれ、悪くはしていないということが明らかなんです。 
 なぜこんなことを住民によく説明していないのだというのが委員長としての私の印象でした。それを40年間も放置してきたのではないでしょうか。だからこそ、人吉市の方は市房ダムの放流で我々は水害に遭ったのだから、市房ダムにさらに川辺川ダムをつくるのは大反対だと主張される。まさに一番の受益者である水害体験者が反対の先頭に立っているのですね。これを何で40年も放置していたのだというのが私の言い分であります。

図−16


 ですから、図-16に示しますように、ダムの計画について、外部団体が入ってきて、森林はよくなったので、基本の洪水流量を7,000m3/sから5,400m3/sに減らせる。これから人工樹林を自然林に戻せば水害は減るとかいろんな知恵をつけるのですけど、基本的なところは、受益者である住民が、ダムは水害のもとだと思い込んでいる。あとは取ってつけたようないろんな意見が出てくるわけです。なぜダムが水害のもとだと思われていることを放置してきたのかというのは、私は元河川行政の責任者としてはじくじたる思いがありますが、しかし、後ほどお話ししますが、そういうことはあり得るなと、組織というものは、時間が経つとともにだんだん変わっていく。先輩から引き継いで後任は正しいと思ってやっていても、外との意識のギャップが物すごく大きくなっているのではないかということであります。
 そのほか、いろいろ環境上の課題が出されました。希少生物のクマタカに影響するとか、生態系を破壊するからダムは反対という意見がかなり強いのですが、最近このような意見は少し減ってきたのではないかと思います。生物学者と本当に胸襟を開いて対話していくと、超えられないギャップは私はないのじゃないかと思います。我々が今まで生命・財産を守るダム事業に何で反対するのだという姿勢をとっているうちは解決しませんでしたけど、お互いに生命・財産も大事だけど、生物も大事だという価値観を共有できたときに、制約は超えられるようになってきているのではないかと思います。私自身は、応用生態工学会会長をつとめており、多くの生物学者の方も同じ学会に属しております。

図−17


 いわゆる森林の専門家と称するいろんな先生が、私は専門ではない人もいると思いますが、森林を整備すればいい、人工林を自然林に戻せばいいというようなことをおっしゃる。昔と比べてどんどん森林はよくなって、保水機能が上がっているというのです。図-17が川辺川ダムの検討委員会に出された資料ですけど、横軸に総雨量と縦軸に洪水流出に寄与しない雨量、すなわち河川水文学では損失雨量、森林水文学では保水量をとり、その関係を整理したグラフです。直線の傾きは45度ですから、これはつまり、総雨量に対して、そのとき河川に出てこなかった量が下の点々ですね、例えば、600mm降ったときに、二百何mmは川に出てこなかった。400mm相当しか出てこなかったと、そういうことを示すグラフです。

図−18


 そうすると、ここに出てこなかった量というのが、時代別に見てみますと、有意差がないのです。ところが、昭和40年当時は人工林で水は出やすかったけど、最近はよくなっているという学説を流している。これは、私は学説でも何でもないと思いますが、その森林学会で1度検証してもらってこいと言いたかったわけです、こういうことを学会で発表せずにマスコミに発表して、県知事にもこういう資料を出して、これが川辺川ダム不要論に根拠を与え、相当な議論を巻き込んでいました。
 そういう意味では、これは大した問題ではなかった。克服したと思いますし、既に学術会議でも結論は出していただいているわけであります。
 ただ、住民にはこれがまだ通じていない。森林の状況が昔と今で変わったと思い込んでいます。それが誤りであると説明するのに、図-17の資料はいい資料だと思います。まとめとして言いますが、なぜ水害体験者が反対なのか。これは私の独断でありますが、事業を行う側の縦割り技術・組織の弊害ではないか。40年水害時における市房ダム操作の説明を徹底的にしていない。関係者がいないので、いてはごめんなさいですが、これは熊本県のダム担当組織の問題ですが、ダムは水害を助長していないということをなぜそのときから一貫して説明してこなかったのか。

図−19


 それから、図-19の中にもありますが、球磨川の人吉改修で十分との誤解を解消していないことがあります。人吉の中は堤防がなかったので、100mに川幅を広げて河川改修させてくれと言ったら、地元の反対に遭って70mに狭めた。それで十分だ、これで水害は起こらないと、国土交通省は説明したかどうかわかりませんけど、余りに反対は厳しいもので、川幅を70mだけ広げて手を打った。
 だから、住民の方からすれば、もうダムは要らないのじゃないかと思い込んでしまったのではないか。国土交通省は、そんなこと言ったつもりはなくても地元ではそうなっているんではないか。これは八代工事事務所、少なくとも人吉出張所の責任だと思います。
 ダムをつくる川辺川ダムの事務所の方は、ダムの現地で一生懸命水没者に説明しておりました。水没者に世のため、人のため、人吉を救うために協力してくれというので、時間をかけて説明している。ところが、一方、市房ダムが水害を助長した、あるいは人吉の河川改修をやればすべて終わる、こういう住民に都合のいいような解釈を野放しにしてきたのではないか、こう思うわけであります。
 さらに言えば、先ほどの図-15ですが、グラフにはダム放流量と書いてあります。我々の言うのはダムの放水口から出てくるのをダム放流量と言っております。だけど、住民はそう思っているのでしょうか。自然にダムに入ってきた量に今までダムで蓄えた水をプラスして流しているのをダム放流量と住民は受け取っているのではないか。
 私は、ダム放流量という言葉を即座に変えなさいと言ってきました。ダム通過量か何か別の言葉に置きかえる、置きかえてもだめなのかもしれませんが、放流という言葉は水害を助長する流量であるという誤解が定着しているのではないか。そんなのが河川局の資料に堂々と出てきます。こんな言葉を使っているから国土交通省は誤解を招くのだぞ、早く直せと言っているのですが、いまだに直しているふうはありません。
 洪水調節、この言葉は洪水を低減させているのか増量しているのかわからないのです。業界用語なのです。こんな言葉を使っているから、洪水調節が始まるので川の中に入っている人は川から出てくださいというようなことを言うことになる。一般の方は放流するのは悪いことをしていると思います。そういう誤解を一つ一つつぶしていかないといけない。
 最近、河川でも計画高水位という言葉を氾濫の危険のある水位と言いかえました。その水位までは洪水は流れてもいいんだと、しかし、できれば流れてほしくない。このように言葉は専門家と住民との間で受け取り方に差がある。それは大いに早く直すべきである。これは法令でも何でもない、早く直せるのじゃないかと言ってますが、いまだに、国土交通省では直していない。そのうちにと言うので、やっぱり逆風にぶつからないとやる気にならないのかなと思います。

図−20


 図-20は、技術・組織の活力についての模式図です。これは畑村洋太郎さんという失敗学の先生のおっしゃっているのをちょっと借用したんですけど、組織というのは、真ん中の上の図のようにきれいに分担しているはずで、建前はこうですけれども、左下の図に示す若い組織というのはまだ組織の分担が決まっていませんから、人の分野まで出ていったりして、全体として何となくうまく分担しているのです。だんだん組織が老いてくると、これは先生は30年と言っていますけど、30年ぐらいたつと、右下の図のようにお互いの間にすき間が出てくる。まさに川辺川ダムの場合は、こういうすき間が結局誤解を招いているのではないかというのが、私の推理です。当事者の方がいたらごめんなさいです。また、私の言うことが誤解だったら誤解ですと言ってすぐ取り消しますが、ただ、こういうことはあり得ると思っています。国土交通省は、どっちを向いて仕事しているのだ。第1に、組織全体が受益者たる住民を向いて仕事をすべきにもかかわらず、ダムをつくることが目的化したことによって、河川の改修を担当している職員は、ダムの事務所はダムをつくりたくてやっているのだ、俺は関係ないので川の改修をやるとか、ダムの管理事務所の職員はダムの管理を間違いなくやってさえいればいいんだというようなことになっていたとすると、組織全体では力の出るのが分散化して、ばらばらな組織の集合体になってしまっているのではないでしょうか。
 ダム工学会の学の方には関係ないように思われるかもしれませんが、どんな組織でもいろんなところでお互いにカバーするということが、30年たつと、ダム工学会ではあと10年ですから、組織を若々しく保つという努力をしていただくことが大事なのではないかと思います。

図−21


 それから、八ツ場ダムの話ですが、八ツ場ダムの場合、1都5県の議会、知事が一致して事業推進を決議している中で、なぜ政府が中止なのか。政府のトップは公共投資と社会資本整備を混同しているのではないかと思います。
  今まで、公共投資というのは、世のため、人のために行われてきた。私もそう思っておりましたが、経済学者なり財務省なり国会の先生方は全くそう思っていない。ある意味では、利権の巣窟ぐらいにしか思っていない。本当は社会資本整備というのは、未来への投資なのです。子孫の代にまで役に立つものをつくっている。そこが抜けちゃって、どこかの政治資金に化けているぐらいにしか思っていない。
 公共事業には予算がつくことは我々も決して嫌じゃありませんから、予算がつけばよかったなということでありますけど、「コンクリートから人へ」というのはまさに公共事業に予算をつけなくてもよいという象徴で、コンクリートは何のためにつくっているのかが理解されていない。土木学会も大分いろいろ意見を言ってきましたけれども、コンクリートに代表されるインフラは国民生活の安全と利便性の向上に資するもので、国民社会の資産を創出するもので、単なる経済財政政策ではないのに理解されていないではないかという意見が多かったです。私はこれまでインフラを整備する事業者の視点からのこの施設が必要という説明が強すぎて、利用者の視点から国民生活、社会活動にとってどのような施設が必要かという説明が欠けていたのではないかと発言しています。この利用者の視点から見ても、政府の方へは申しわけないけど、利根川では八ツ場ダムは絶対必要なのです。

図−22


 利根川の東遷ということがあります。利根川の東遷というのは、図-22に示すように、江戸時代に利根川と渡良瀬川・鬼怒川の3本の川を1本にしたのです。頭と胴体と足が全く別物をくっつけたのです。つまり、もともと1本の川としてでき上がっていませんので、借り物の足で銚子へ流れているのです。このため、下流の河道は大きな洪水を流せる実力がなく、そうすると上から来る重圧を避けるためには、ダムは極めて有効な手段となります。利根川の計画の基本となる洪水流量の2万2,000tが多いとか少ないとかで議論されていますが、とにかくダムにより上流でカットしてくれるのは大変ありがたいことなのです。そういう位置づけで利根川の治水計画ができているのに、そのような話が政府の皆さんには理解されていない。

図−23 図−24

図−25 図−26

図−27

 図-23は利根川改修計画の経緯、図-24,25は、カスリーン台風での被災状況。
 この辺、飛ばしていきます。図-27は八ツ場ダム中止の議論を主導してマスコミにも出てしゃべったり有識者会議でもしゃべった反対派の主張であります。これは単なる技術論にすぎない。技術の奥に流れている安全をどう確保するかという哲学が全く欠けていると思います。流域面積や雨の降り方などの枝葉末節なところでダムは要らないという議論が出てきます。後で読んでいただければいいと思いますが、私は安全工学というのを最近提唱しております。魚本先生も安全工学を専門にやっておられるようなのですが、私も安全工学について少し話させていただきたいところですが、飛ばさせていただきます。(図-28,29,30,31参照)

図−28 図−29

図−30 図−31

図−32 図−33

 図-32は降雨分布に応じた洪水調節の考え方で説明は省かせていただきます。図-33は破堤のFault Tree Analysisです。

図−34


 図-34は、連続堤の信頼性です。信頼度というのは危険度の反対で、その施設が所定の機能を発揮する確率で、1マイナス危険度と見ていただくとわかりやすいと思います。1kmの堤防で100回洪水が来て1回だけ切れるという堤防を考えてみたときに、信頼度は100分の99という青い線になります。100kmの連続した堤防になると、全区間が全て破堤しない確率というのは100分の99の100乗ということで0.35ぐらいになります。洪水が3回きて2回は破堤するという確率なのです。
 つまり、我々には安全度というのは、設計どおり、マニュアルどおり造ってあれば100%機能を発揮するという、何かそういう思いこみがあるのですけど、実は設計どおりに造っても危険は忍び込んでいる。それを積み重ねれば積み重ねるほど安全度は落ちていく。一番顕著なのは連続堤です。河川局は、連続堤は1kmの堤防も100kmの堤防も、同じ設計にしています。私がスーパー堤防を考え出したのは、このような考えに基づかないで、全国の全部の堤防をやり直すというのは大変ですから、利根川ぐらいは他の河川と違う設計にしようということで、スーパー堤防というのを提案しました。この間、事業仕分けでアウトと言われましたが。
 国民の生命・財産を守るのにどうやっていくかというのが河川工学における安全度の考え方です。安全度というのは単なるマニュアルや基準ではできないのです。そういう安全度を考える上で、もう少し説明しますと、余裕高というものがあります。余裕高を何cm超えたら安全度がどのくらい下がるかというのが図-35です。

図−35


 単位長1kmの堤防信頼度が計画高水位で0.999を想定した時、洪水位が堤防天端では信頼度が0.5となるケースを想定してみましょう。その間を信頼度が直線的に変化するとすれば、洪水位が1cm超えたとき、5cm超えたときどうなるのか、またまだ堤防天端からの越流には余裕があり、一部の先生も気楽に余裕高の部分に護岸を張れば大丈夫だよという話をされる。四国の第十堰の議論でもちょっと護岸すれば何ということはないよというのを学者の先生がぺらぺらとしゃべっておられる。これは安全度をむしばんでいることなのです。わずか1cmでも、これが100kmの堤防だと、信頼度は0.99が0.75ぐらいになり、洪水の4回に1回は破堤です。5cmだったら、もう0.3程度下がり、3回に2回は破堤することになる。
 つまり、安全度を量的に考えて、それをどうバックアップするかという発想が重要なのです。ダムは極めて効果が小さい。つまり、わずかに水位を十何cmしか下げないといわれるのですが、わずか十何cmの水位の低下はものすごく効果があるという理解が抜けているのです。

図−36


 図-36は、水害リスクの受忍レベルを示したものです。リスクというのを工学者だけじゃなくて、一般社会とも共有する必要があると思います。リスクには幾通りもあって、1つは選択可能なリスクです。たばこを吸うということは、たばこを吸って肺がんになる危険性はあるけど、たばこを吸いたいという人が吸う。山登りに行ったら墜落して死ぬかもしれんけど、山に登りたいという人がいる。これは個人の選択、趣味だからいいのです。これが、選択可能なリスクです。競馬で虎の子をする可能性があっても、馬券を買う、これも選択可能なリスクです。そういうものではなく、水害というのは、嫌なのだけど、押しつけられる強制的なリスクです。
  その中に、また私は2つあるのではないかと考えます。一つは固有のリスクです。雨が降ったら、水がたまるようなくぼ地に住んでいる人がいるとします。そのリスクを小さくしてやろうとすると、これはポンプでくみ上げるということになりますが、20年、30年に一度の時は機能していますが、100年や200年に一度の雨が降ると浸からざるを得ない。浸かるのは本人に受け入れてもらうしかない。
 強制的なリスクとして、もう一つに被転嫁リスクがあります。工学者は、固有のリスクは受忍のレベルに抑えることでいいと考えますが、被転嫁リスク、例えば上流を改修して下流へ水を集めて持ってきてそこで破堤されるリスクを大きくするようなことは絶対防がなくてはいけません。リスクの受容レベルは限りなくゼロでなければなりません。破堤によって家を流されるというのは何としても回避しなくてはいけないと考えます。破堤リスクの回避というのは、これは徹底的に追求すべきであります。そういう意味では、ダムは大変有効な事業であります。

図−37


 図-37は堤防の信頼性を向上させ、破堤回避を追及したスーパー堤防の説明図です。スーパー堤防については説明を省かせてもらいます。

図−38


 図-38も省略させてもらいます。いろいろ申し上げましたが、最後に、ダムは時間がかかるという批判があります。これは仕方ないというのでは済まないのではないかと思います。

図−39


 図-39は、事業執行上の問題点です。公共事業評価監視制度の確立とあるのは、先ほど少しふれました事業の途中での評価というので青山さんが始めたものです。それから地域の個人だけを補償するだけでなく、地域補償までするべきではないか、という意見に対しては、八ツ場ダムが契機になって、水源地域対策特別措置法というのができました。
 それから、蜂の巣城の経緯は生かされたかという課題があります。私が建設省に入ったころに、松原、下筌ダムの反対運動の中心となった、蜂の巣城が大変な問題になりました。あの話も、後で聞くとボタンのかけ違いが始まりと言います。八ツ場ダムも、ここでは書いてありませんが、ボタンのかけ違いから始まっているようです。最初に住民に話すときに、事業者として必要な施設だから造りに来たのだと乗り込むのか、それともあなたの土地を世のため、人のため提供してくださいという地元の人の気持ち、水没者の気持ちになってやるかどうかの違いは物すごく大きいのです。
 私は昔、川治ダムの出張所へ行きました。そこで、あそこは水没ゼロと、最初にそういう評判が立っているところに行って、水没は実際は100戸という話をしまして、反対者は押しかけてきました。反対の大会も開かれました。糾弾大会じゃなく、聞きたいということでした。行政に対して、余り圧力にならなかったのは、所長が言っていることを見守るということでおさまったからのようです。
 そのとき所長が逃げていたらどうなったのかなと思います。その後に堀和夫さんという立派な方が所長になられて、この方が徹底的に地元を回って、水没者の意向を十分酌んだ上で水没対策をやったから、今から見れば非常に短い期間でまとまっている。
 つまり、八ツ場ダムでは最初に乗り込む人にだれを当てるかということに、余り配慮がなかったのじゃないか、年功序列で行ったのかもしれません。しかし、これは、ダム工学の重要な要素で、全く被害者としか言えない人たちにひざ詰めで話をしていくには、全人格が必要だと同時に、今まで失敗した事例を十分踏まえて、つまり蜂の巣城で何があって、何でこじれたかを少なくとも知っていたら、対応は違ったのではないか。つまり、私はダム工学の中で用地交渉というものは極めて重要な要素であると考えます。
 反対する人たちは、最初は純朴なのです。先祖伝来の土地にただ住んでいたというだけの人、その人たちにこの事業の必要性を伝えるのに、お役所言葉では伝わらないのじゃないかと思います。
 図-39には、例えば事業費が2,100億から4,600億になった、それが全部、政治資金になっていると思われていますが、これもよく点検してみると、今までの予算制度で、必要経費を事業費としてみていなかった。民間ではこんなことをやりません。ある程度の想定をしてその上に上積みしています。事業費の中に用地費が幾らというのを正直には書きません。書いたら水没者にばれるから少なくしておく。こんな、こっちの都合が相手に通じない事項がいろいろあるのじゃないでしょうか。

図−40 図−41

図−42 図−43

図−44 図−45

図−46

 図-40から図-46は、ダムは自然破壊との批判にこたえるものです。さっき話しましたけど、私は、今、応用生態工学会会長をやらせていただいておりますが、工学の中に工学と生物学との間で共通の研究領域ができてきています。我々の調査手法が、環境アセスの技術基準に環境省に取り上げていただいております。

図−47

 これは、どちらかというと、工学者が考え抜いて、生物学者の了解を得ながら書いていった技術基準であります。

図−48 図−49

図−50


 図-48から図-50は、これから高齢化社会になって、我が国はどうなるのかを示しています。今は、後輩にというか、次世代に借金して社会保障に充てているのが現在の政治のあり方です。子供手当なんて子供にやっているのかどうか、親が食っちゃうのかもしれませんし、37兆円の税金に44兆円も借金して、これがほとんど社会保障に向かっています。これを国民がまだ気がつかない。でも、我々が言うと、すぐ公共事業をやって、利権の巣窟にしてしまうと思われているので、非常につらい立場であります。今日、米田先生に来ていただいていますが、先生にはあちこちで公共事業の必要性を言っていただいているのですけど、未来への投資、次の世代に何を残すかというのが非常に大事であるということが言いたくていろいろお話しました。
 少し話しが長くなりましたが、申し上げたかったのは、マスコミや反対派の非を責める前に、己の足らざるところを顧みよ、私なりの経験の中で、こういうところは直さないとなかなか相手が間違っていて俺は正しいのだというふうにはいかないんじゃないか。これは、ダムは目的ではなくて、安全で豊かな社会実現のための手段である。ダムによらない治水、今検討していますという話ですが、治水の問題、社会の安全の問題は、そう簡単な話ではありません。
 八ツ場ダムで500世帯に動いてもらうのに四十年かかったけど、それでは下流で、水深二、三mで何万人もの人の家が水に浸かってもいいのかという話はそう簡単な話ではありません。そこの難しさをわかって、じゃ一人でも反対したらやめるのか、ダムに頼らざる治水手法は、もっと母数をふやして、話をつける手順に時間がかかります。それは、最後は政治が決断してもらわなくてはいけません。そこまでまた提案もしていかなければならない。それでないと、ダムに頼らない治水の方法というのは、簡単にはあり得ないのです。その話までちょっとしようと思っていましたが、十分に話せる時間がなくなりました。
 そういう中で、最近、ダムも明治初年にあった廃仏毀釈の対象みたいに見えてきます。仏教が悪いわけじゃなくて、江戸時代に仏教に名をかりて、政府の統治の手段になっていたというところに、明治維新で新政府になって、アンチ徳川の考え方でそうなっていったのかもしれません。明治4年にはこの廃仏毀釈運動は全くなくなっているそうです。わずか三、四年でした。ダムの逆風がどれぐらいでとまるかわかりませんけど、今我々、私も含めればダムの必要性あるいは公共事業の必要性を考えている人は、少し遠回しですけど、いろんな形で理解を深めていく必要があるのではないかと思います。

図−51


 図-51は、私が土木学会長で3月号に書いた社会資本の「コンクリートの視点から人の視点へ」です。コンクリートというのは社会資本であり、人は社会保障だと思われていますけど、ただ我々の中でも、整備者の視点、事業執行家の視点から、利用者・国民・社会の視点に変えて、ダムによらざる手段があれば、大いにそちらへ向かっていくという中で、どうしてもダムによらざるを得ないところは断固として進めていくという努力が必要なのではないかというふうに思いました。
 ご清聴ありがとうございました。

図−52


 

 

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