■荒川の紹介
荒川は、秩父山地の甲武信ヶ岳に源を発する一級河川です。大洞川、中津川、赤平川等を合わせ秩父盆地を北流して長瀞渓谷を流れた後、埼玉県大里郡寄居町で南東に流向を変え関東平野に入ります。武蔵野台地の北西端から埼玉県中央部の平野を流下し、途中市野川、入間川等の支川を合わせて、下流部の東京都区部と埼玉県の低地を流れ、東京都北区において隅田川を分派し、東京湾に注ぎます。高密度に発展した首都圏に、社会・経済活動に必要な多くの都市用水や農業用水を供給しており、日本の政治・経済の中枢を支える重要な河川となっています。
江戸時代以前の荒川は、その名のとおり「荒ぶる川」でした。流路は現在と異なり元荒川筋を流れ、埼玉県の越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。扇状地末端の熊谷付近より下流では、しばしば氾濫を起こし流路を変えていました。関東平野の開発は、氾濫・乱流を繰り返す川を治め、いかに川の水を利用するかにかかっていたのです。このため、江戸時代寛永六年(1629)に、久下村地先(熊谷市)において元荒川の河道を締め切って堤防を築き新川を開削し、荒川の本流を当時入間川の支川であった和田吉野川の流路と合わせ、隅田川を経て東京湾に注ぐ流路に変える大工事が行われました(下図)。この工事は「久下の開削」または「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれています。この河川改修事業により、荒川の河道は現在とほぼ同様の形となりました。埼玉東部低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、舟運による物資の大量輸送は大都市・江戸の繁栄を支え、江戸の発展は後背地の村々の暮らしを向上させていきました。
明治に入ってからも、荒川流域は依然として水害に悩まされ続けていました(下表)。特に明治43年の大洪水の被害は大きく、これを契機に東京の下町を水害から守る抜本対策として「荒川放水路」の開削が実施されました。この工事は、北区の岩淵に水門を造って本流を仕切り、岩淵の下流から中川の河口方面に向けて延長22km、幅500mもの放水路を開削するという大規模なもので、移転戸数は1,300戸、のべ320万人が働き、昭和5年に完成しました。今日の首都圏が洪水から守られているのは、先人達の苦労の賜物といえます。
【出典】
国土交通省関東地方整備局河川局ホームページ「関東の川情報(荒川)」
http://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/river/river_info/ara_01.htm
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